去年に続いて今日決行される熊野寮祭企画「時計台占拠」について。これは熊野寮祭企画であり、熊野寮自治会の一員としてわたしにも責任があるらしいね。わたしは時計台占拠の実行に結果論的に反対だがこの行動にもある程度の論理と正当性はあるわけで、一致出来る部分についての補強と一致しない部分についての批判を行おうと思う。
1.時計台占拠は危ない。
これはマジでそう。今朝も震度5強の地震が2回も来たがもうすこし震源が京都に近づいて実行中に来たらどうするんだ??
どうしても”人為的でない”リスクを排除できない。
2.もし何か起きたとき当局が責任を取らざるを得ない。
ここについてなかなか一致出来ないのだが。1に関連して、熊野寮自治会は責任主体であろうとし続けているわけであるが、「責任をとる」とは果たしてどういうことであろうか。責任を取るためにはそれが社会的に了承されないと不可能であるとわたしは考えているのだが。この場合、当局が責任を「取らされる」立場にあることは現在の大学教育を考えると妥当であろう。これは今回私たちが批判し打倒しようとしている大学の「トップダウン型」「ガバナンス強化」の文脈とはまた別に、悲しいかなパターナリズム的な「学校らしさ」が大学にも侵入しつつある。これは新自由主義的な意思とはまた別の社会了解であり、世間や保護者からの批判といった形で大学に対して学生の監督責任を押しつける。もちろんこれはナンセンスなことだとわたしも考えているが、現状、大学の教育機関としての側面は強化されつつあり、わたしは実際に何かあったときケツを拭かされる立場なのだからこそ、この件に関して当局が口を出す権利を与えていると思う。この、「大学のガバナンス強化」と「大学の学校化」の論点を分離出来ないことはこの運動において大きな弱点の1つであるように思われる。
3.熊野寮の戦略上の問題
さて、これは熊野寮の主体により、廃寮化攻撃に対する実力行動いう喫緊の面を持つが、果たして時計台占拠といった実力行使行動は熊野寮を延命するだろうか。わたしは否だと考える。もちろんこれは非常にマクロで不確定的な未来予測であり、見解を一致させることは出来ないだろうが、わたしはもちろんある程度の実力行動が必要なことは認めつつも、熊野寮の過度な先鋭化と孤立、内部での分裂を懸念する。寮内ですら、寮防衛に対する強い一致は取れていないように感じる。果たして寮生全員が思想を語ることができるであろうか?
4.主張の問題点
大学の自由が必要なことは明らかであるが、時計台占拠の自由に対する主張は正しいだろうか?大学内にもそれぞれの分掌がある。例えば理系の研究室などは精密or危険な環境が多数ありそれを各々の研究室で管理するべき分掌がある。同様に、時計台を熊野寮D棟とする主張はどれほど正当であろうか。たしかにこれはかつて総長室が設置されていたというガバナンスの象徴としての意味は認めるが、全体的にわたしは些か短絡的な論理なのではないかと考える。まだここの違和感を十分に言語化・理論化出来ていないが、時計台占拠によって「廃寮化攻撃に対する実力行動」と「全学的な学生自治によるガバナンスからの自由」の両主張を両立することは難しいように思えてしまう。その象徴的な意味の付与によって総人生が桂キャンパスを占拠して「第二吉田南構内にします!」と宣言することと異なるだろうか。
5.運動としての弱点
実力行動が重要であることは一定認めるが、実力行動には獲得性に大きな弱点を孕む。今回、処分・逮捕可能性を少なくするために、全員全身黒の装備で統一しているが、怖すぎるだろこれ。誰がこの全身黒づくめの集団と仲間になりたいんだよ。この格好を強いられている時点で既に(日本では)敗北だと思う。
6.全学自治としての戦略上の問題
前述の様に全学マターにする上で獲得可能性が低い。熊野寮は廃寮化攻撃への実力行動という喫緊のマターを考えるそして割くリソースが大きい。処分撤回運動などに私たち「自治勢力」(と界隈として認識されていることが既に悲しいが)は大きなリソースを割いてきた。自治を真に全学的なものにするためには徹底的にコストを下げることが必要であろう。
7.大学の戦略上の問題
視点を大きくしよう。現在、大学は不必要な改革を迫られている。「選択と集中」がもはや効果無いことは内部では自明にもかかわらず、未だに続けられようとしている。これは何故か?大学というものが実益を過度に求められているからであって、さらに強い言葉で言うのならば私たちの想像している「大学」は社会から必要とされていないからである。アカデミアはこれまで自身に驕り高ぶり、社会からの了解を得ようとする努力を欠いてきた。私たちが存続出来るのはそれが社会から必要とされ投資されるからである。その意味で、打倒すべき対象は当局でなく文科省、文科省でなく財務省、財務省でなく国会、国会でなく国民である。国民に大学の必要性に対する了解をとる運動こそが必要であろうが、これは大学内部での内部分裂にすぎない。さらには、このような実力行動が大学外部からどう見られるであろうか。特に「It’s Media!」な切り取り社会の中でこれが「学生のごっこ遊び」or「思慮の足りない暴力」以上に映ることがあるだろうか。わたしは時計台占拠が正当な行動であったとして、そう外部に映るための広報を大きく欠いてきたように思う。
一方、当局・警察の対応が明らかにおかしいことも合わせて主張したい。
わたしは「大学のガバナンス強化に対する自由獲得の運動として、また熊野寮の廃寮化攻撃に対する対応としての時計台占拠」には反対であるが、そもそもなぜこのような現状が起きているのか?時計台に登ることは果たして処分・逮捕に値する行為であろうか?
大学はその言論の多様性を保証するために高度な自治を要求し、ある程度認められてきた。大学が学生を弾圧するために自ら通報し機動隊を呼ぶなど言語道断ではないか?時計台占拠はそれに値するほどの危険行動だろうか?当局の主張も短絡的・一方的で無理があるように思われる。
また、これはわたしの希望も含まれるが、大学という既存の概念に批判的であるべき場所だからこそ、現状の規範を前提化するべきでないし、議論すべきである。大学当局は徹底的に対話の場を封鎖してきたが、これは学生の主体性を過度に奪っている。教育機関と研究機関の両面を兼ね備える大学において、その外部投資から社会の要請に答えるべき機構を持ってしかるべきなのも事実であるが、やはり主体は学生と教員のコミュニティであろう。私たち学生も正誤を問わず批判的思考を持つ主体であり、教員たる者それに答える形で対話して導いて欲しい。
処分の過程も不透明である。既に過去に、「タックルされた」にもかかわらず「タックルした」として処分されているような事実関係の怪しい処分が発生している。弁護士の同伴の認められない1人(対教員複数)での呼び出し等、パワーハラスメント・人権侵害であると取られられるようなこともある。
そして、この警察の導入が中核派や同様に新左翼としての学生運動の残党の不当な弾圧の文脈を組んでいることは明らかである。今年熊野寮に「寮に住んですらいない者の免状不実記載」のために機動隊が来た。これに正当性が無いことは明らかであろう。警察権力に対し人々は規範的になりすぎるが、別に彼らに特段の正当性があるわけでもないということをわたしは身をもって体感している。
前段で述べたようにわたしは「大学のガバナンス強化に対する自由獲得の運動として、また熊野寮の廃寮化攻撃に対する対応としての時計台占拠」には反対であるが、その上で時計台占拠における処分・逮捕をまた許さない。バカが勝手に時計台に登って、それが自己責任で処理される位の主体性を持った大学・社会でありたい。